川上善兵衛について
2018年12月31日
日本ワインの父、川上善兵衛について
日本のワインの歴史を語るうえでは外してはならない人、というか日本のワインの歴史自体を生み出したといっても過言ではないほどの人物である川上善兵衛。
狂気とも言われたワイン造りへの情熱と行動力とは裏腹に莫大な借金と財政破綻を招き経営としては大失敗に終わり、経営難に陥った岩の原葡萄園。経営の才能が無かった善兵衛でしたが、「葡萄提要」と「葡萄全書」を著したのは偉業と称えられるべきものです。
また、1万種もの交配を行い作出した「マスカットベーリーA」「ブラッククイーン」は現在も多くのワイナリーで栽培・醸造が行われています。
生い立ち、勝海舟との出会い
善兵衛は、病弱だった前代が28歳という若さで亡くなったために、7歳にして六代目川上家当主を継ぐことになります。稲作を中心に小作人を使った大規模な農業を行っていましたが、雪や河川の氾濫による収穫の不安定さで「三年一作」と言われる状態でした。
幼いころからこのような状況を肌で感じでいた善兵衛はこの状況を何とかしたいと思っていました。四代目の当主が有力者であり、中央とのつながりも多かった関係で善兵衛はあの勝海舟と縁を持つことになります。勝海舟との付き合いの中で、ワイン醸造を勧められた善兵衛は稲作に変わる新たな作物として荒れた土地でも育つといわれた葡萄の栽培を研究し、ワインの醸造に取り組むようになります。
ということは、勝海舟が日本のワイン造りの陰の立役者とも言えますね。
ところで、Wikipediaによると(事実とすれば)、善兵衛は勝海舟の活動に資金を提供していたとあります。経営破綻の一因はここにもあったのですね。。
戦争特需から破綻、鳥井信治郎の救いの手
明治37年の日露戦争による特需で、一時は葡萄酒の需要により財政が潤ったものの、すぐに特需は終わってしまいました。需要に応えようと生産規模拡大に投資したことと、競合の乱立による過当競争が急激需要の冷え込みというカウンターパンチに見舞われて岩の原葡萄園の経営は一気に落ち込みました。
そんななか、サントリーの創業者でもある鳥井信治郎が現れます。善兵衛と鳥井は共同出資して「株式会社寿葡萄園」を設立します。のちに株式会社岩の原葡萄園と名前を変え、サントリー傘下で現在まで活動が続いています。
岩の原葡萄園を支えた男、川上英夫
北海道帝国大学にて農業経済学を修めた 川上英夫はとても優秀な人間で 、善兵衛の依頼で同大学農学部長星野勇三が白羽の矢を立て、川上家に娘婿として養子になった経緯があります。最新の農業経営を学んだ英夫と善兵衛は経営方針が一致しないことも多く、いい関係であったとはいえなかったようですが、善兵衛としては研究活動に専念したいという気持ちが強くあり、経営を英夫に任せたいという気持ちがあったようです。
後に、サントリーが「登美の丘」を買収し、腕見込んだ鳥井信治郎は英夫に立て直しを任せます。
日本の風土に合った品種の開発
善兵衛は研究の中でヨーロッパ系品種の栽培は日本の風土では難しいことを感じ始め、樹勢の強いアメリカ系品種とワイン用として優れたヨーロッパ系品種を掛け合わせて日本の風土に合った品種を開発しようとしていました。1万種類もの交配種を生み出し、試験をした結果、結実した1100株のなかからマスカットベーリーA、ブラッククイーンを始めとして品種を見出しました。今では日本全国で栽培され、ワインが造られています。
代表著書 「葡萄提要」「葡萄全書」
葡萄提要綱は保護期間が終了し、インターネット上で公開されています。
「葡萄全書 全三巻」は保護期間中のため、インターネット上ではまだ公開していないようです。国会図書館に足を運ぶことで読むことができます。
川上善兵衛をもっと知りたいあなたに
川上善兵衛は勝海舟に勧められたがをきっかけでワイン用の葡萄を研究し始めたわけですが、わき目も振らずにわが道を逝くという根っからの研究者気質であったということは疑いがありません。こういう情熱が周りを巻き込み、産業を生み、育てていくのだと感じました。ということで、善兵衛をもっと知りたい方は「川上善兵衛伝」を読んでみてください。